幻のおたくの街をもう一度

オタクの街秋葉原に「おたく」の居場所がなくなっているという問題 - ボンタイ
なんというか、おたく民族が秋葉原を武力によって占拠、実効支配していたわけでもないのだから、素直にオタクに明け渡せばよいのだろうとは思う。要はおたくは金づるにならなかったのだろう。街の景色を決めるのは、武力か、権力か、金なのだから。
おたくは、街の支配に失敗したのだ。おしいとはおもう。別の街のあり方はあったのではないかと思う。金に従い、動物的に行動するのではない方法。思うにそれは、政治に向かうことじゃなかったのだろうか。おたくの定義にあげられているように、社会的に足りてない人々にとって土台無理な話なことはもちろんそうなのだけど、でも、もし深い見識をもったといわれるおたくが、コミュニケーションをとりながら、その情熱を保ったままコミュニティを発展させていたとしたら、どーだったのたわろう。間違いなく彼らには、普通の人よりも考えていた。それはマイノリティー故の、処世術的な知見もそうだし、また、それ以上に単純に寝食を忘れるほど傾けている趣味への関心もそうだ。そうした動きは、今の日本人に足りていないイノベーションを引き起こす力につながっていたと思う。じぶんの利害関係をこえた、動物的な本能もこえた、働き。
それは、象牙の塔からでてきさえすれば、古代ギリシアのポリスで行われていた、自分の利害関係をこえて、世の中のあるべき姿を議論しあう本当の意味での政治と重なる。
秋葉原を、アゴラととらえ、リアルな政治につなげることがおたくにできていれば、面白かったのだろうなと思う。何か政治的アクションをとるのはかっこ悪いというのがはやりだったし、神の見えざる手に身を任せることが、時流だったし、しょうがないとおもうけど。
でも今のオタクのなかにも、その仮面を被っているだけで、おたくはたくさんいると思う。ほとんどの活動は!ネットでおこなわれ、リアルな活動があったとしても、ゲリラ活動的な、オフ会、ミートアップ、ハッカソンなどになっている。固定的な活動の場所を、まぼろしの、おたくのための街を、リアルな場所に向上的に作り上げることはいまからでも可能なのではないだろうかと思う。議論をしあいながら、官僚的なおしつけではないおたく文化を作り上げるための場所が、きっとできるはずだ。